フォニコのささやかな情報
1964年 東京オリンピックの時に生まれる。
小学校時代 富士通や日立のオフコンに出会い、システムに触れるチャンスがあった。 当時の大きなハードに驚いた記憶がある。
電子ブロックやラジオキット製作を通じて電子分野が好きになる。
休日は、秋葉原電気街で抵抗やコンデンサーIC・LSIを入手するために走り回る。
購入費用が続かないので部品屋の店先にバイト同然で居座る。非常に迷惑がられたのだと思う。
トランジスタ→IC→LSI→マイコンと時代の変遷があり、 基板コンピュータキットブームが来る。
中学校時代 コモドールやアタリという基板ゲームを入手して遊びはじめる。 実際は、分解した結果基板となっただけかも・・・
組み上げる技術もそのころ手にする。今、考えてもよく集中してやったと思う。
高校時代 メインは、写真部員として在籍活動する。 映像や画像が大好きな学生として異常視された。
毎日、授業中ですら一眼レフや8ミリカメラを手にしていた。 教師も呆れて止めなかった。自分だけ暴走していたからかも。 今で言う「学級崩壊」を個人的に実践していた。
既にそのころの記憶シナプスが傷を負っているため思い出せない。
この辺りからNEC『パピコン』とか出てきた。 シャープMZシリーズやYAMAHA『MSX』とかのBASIC言語でプログラムできるマシンがゾクゾクと。
高校卒業後
すぐに就職する。金の卵ではないが進学校で良く就職したなあなんて良く言われた。
18歳で働き始め給与は、全て部品代や遊びのお金。一応、先輩の薦めで「サーフィン」と「ウィンドサーフィン」とかしました。それなりに出来た。ある意味モテ期。
まわりに居たサーフィンで遊ぶ学生に憧れて2年後、学生へ返り咲く。就職経験がある為、まわりの学生とは一風違う夜の世界で大暴れする学生を経験。
学生時代のバイト:渋谷と代々木の間にある某国営放送にて働く。衛星放送準備期間として。
卒業後、某企業のシステム管理部門の社員教育の担当として約10年以上勤務しました。真面目に。
教育インストラクターとなり社内・社外の人々への研修を実施する。講習会を通じ個々の疑問をソフト会社へ質問に使用する。
ライセンスもあっという間に無くなる為、企業には非常な費用が必要でした。
ライセンス対応に関しての稟議を通過させることが難しく、面倒なので書籍購入等へ申請を変更する。また今までの経験等を通じてソフトの対応を始めた。
周りからの評価
非常に一瞬の間、「サポセン」・「パソコン便利屋」として重宝されていた。
そんな評価も長続きせず、企業の中で不景気風に翻弄され残念ながら余剰システム部員としての烙印が押された。
リストラ対象となり退職した後、地元埼玉県に転職する。
転職後は、それなりの浮き沈みはあるものの幸せに過ごせている。
埼玉県の企業でも不景気の為、退社する。
ある意味高齢転職にも関わらず東京都新宿区の企業に転職成功する。
意外と幸せかも・・・